グラスルーツからの歩み。

エイミー・スケルトンは、最も最初にPHANになったひとりと言っても過言ではない。
大学時代の友人たちのバンドであるPhishとともに、ずっと歩んできた。
次第に一PHANからスタッフへと移行、Phishのマーチャンダイジングを手掛けるようになる。
彼女にインタビューしたのは、2000年6月16日。ZEPP OSAKAのステージ裏でのこと。
初期PHANが明かすPhishのインサイド・ストーリー。

TEXT●TAKASHI KIKUCHI

 

── 来日公演を期に、PhishのオフィシャルTシャツを街でよく見かけるようになりました。Phishのマーチャンダイジングは、いつ頃からスタートしたのでしょうか。

AMY 89年か90年だったと思うわ。レコード会社と契約しようかという話になった時に、マーチャンダイズも始めたのよ。定期的に発行しているレターもその時に一緒に始めたの。最初のニュースレターではCD一枚だけの広告を載せただけだったけれどね。当時は、グラスルーツ(草の根運動)みたいな感じで、マーチャンダイジングの規模もすごく小さかった。94年頃までは、バンドの事務所と同じところにPhish DRY GOODSもあったのよ。注文されたTシャツを、裏の部屋でたったひとりがパッキングして送っていた、そんな感じだったわ。

── バンドが成長していくのと一緒に、Phish DRY GOODSも大きくなっていったんですね。

AMY 95年だったと思うけど、初めてPhish DRY GOODS専用のオフィスが出来たのね。当時扱っていたアイテムは、Tシャツが10種類くらい、ステッカーが5種類くらいだったの。本当に小さな規模だった。エレクトラとCD契約するようになって、マーチャンダイジングはもっと売れるようになったけど。ただメジャーレコード会社のエレクトラと契約したことによって、CDはホールセールでは売れなくなっちゃったのよね。

── ポスター、キャップ、リストバンド…。様々なアイテムが今ではセレクションされています。徐々にアイテムが増えていったのはその頃なのでしょうか。

AMY 96年になってスエットシャツやフリスビーを作るようになったの。96年以前は、TシャツもツアーTシャツしか作っていなくて、96年からPhish DRY GOODSとしてのアイテムを増やしていったのよ。

── インターネットの普及によって、多くの人が簡単に好きなバンドのアイテムを手に入れられるようになりました。特に日本ではそうです。来日することがないバンドのTシャツは、なかなか見つけられなかったですから。

AMY インターネットのホームページを始めたのは96年だったと思う。95年まではホットラインで、電話で情報をいろいろ流していただけ。オフィスは95年にはマサチューセッツにあったんだけれど、96年にはバーモントに戻ってきた。今振り返れば、その年がバンドにとっても、Phish DRY GOODSにとっても大きな変換期だったわ。ウェッブサイトが出来てからは、本当に変わった。オーダーも増えたし、オーダーそのもののシステムも変わったし。

── 日本からでも簡単にチケットの予約ができるようになりましたしね。マーチャンダイジングのグッズにしても、自分の好きなものが自分のサイズで見つけられるようになりました。

AMY
 今から1年半前(99年初頭)は、インターネットでのオーダーが全体の35%でしかなかったのよ。でも今(2000年夏)は60%を超えている。確か94年か95年だったと思うけど、チケットのメールオーダーがスタートしたの。ウェッブサイトが出来てからは、ウェッブサイトからオーダーフォームをダウンロードして、チケットをオーダーできるようにしたのよ。

── フロリダのビッグサイプレスで行われたNYE2000のTシャツは、日本のショップでもよく見かけました。

AMY
 普通は、コンサートやツアーのTシャツは一度作ったら再び作ったりはしないんだけど、ビッグサイプレスのNYE2000だけは、問い合わせの電話も頻繁にかかってきたから、特例としてリプリントしたのよ。ショーでもソールドアウトになっていたし。

── ツアーTシャツ含め、Phishに関するTシャツは最近ではどれくらいの種類を作っているのですか。

AMY
 Tシャツは何種類作っているんでしょう。数えたことがないから正確にはわからないけど、1年間でツアーTが20種類、それ以外が20種類、計40種類くらいじゃないかな。実は今、日本人のデザイナーに仕事をしてもらっているのね。彼は一生懸命デザインをしていて、それがはたしてバンドからオーケーが出るかどうかわからないけど、いずれ彼のTシャツが生まれるでしょうね。Tシャツのデザインは、最終的にはバンドのメンバーが決めることなの。

── Tシャツのデザイナーは何人いるのですか。

AMY
 去年使ったデザイナー/アーティストは12人。日本人のデザイナーと出会ったのは、ニューヨーク・ファッション・ブティック・ショーだったわ。そのニューヨークで行われるギフトショーにはPhish DRY GOODSとして97年から参加しているの。ギフトショーで彼の作品を見つけて、それが気に入ってコンタクトをとったの。Phish DRY GOODSのブースも出しているけれど、それ以外にもそんなアーティストを探すスタッフもいるのよ。ギフトショーは自分たちのアイテムをセールスする機会であると同時に、Tシャツをデザインしてくれる才能ある人を探す場所でもあるの。


── エイミーさんが、Phishのメンバーと出会ったのはいつだったのですか。

AMY
 1983年にユニバーシティ・オブ・バーモントへ入学したの。入学してまだ数日程度しか経っていない時に、友達から『ジョン・フィッシュマンという変な奴がいるから、会ったほうがいいよ』って言われて、それでジョンのところに挨拶に行ったのよ。お互いに共通の友人とかもいて、急速に仲がよくなっていった。その時ジョンは、まだバンドとしては活動していなくて、いろんなところに顔を出してはドラムを叩いているっていう感じだったわ。その後、トレイとジョンが知り合って、ジャムるようになったの。その後違うギタリストも入ったし、ドーブスというパーカッションプレイヤーもいた。それが83年後半から84年にかけての、大学に入ってすぐの出来事。84年になってから、ドーブスがいなくなって、バンドはジョンとトレイとマイク、そしてもう一人のギタリストという編成になったのね。ペイジはまだその時はいなくて85年から参加したの。ペイジはガット・ユニバーシティに通っていて、ジョンとトレイが、バーモント大学からガット大学へ編入したのよ。アメリカではカレッジの編入はごく当たり前に行われているの。バーモントとガットは距離として車で1時間くらいかな。結局はマイクだけがバーモント大学に残ったのよ。当時は大学の周りの小さなカフェとかクラブとか、ダイニングルームとかでPhishはプレイしていたのよ。観客が10人なんてことも普通のことでね。Phishのメンバーと、私のようなPhishの友達はいつもつるんで遊んでいたわ。昼間はずっと一緒にいて、メンバーは夜になったからショーの時間だからってクラブに向かう。私たちも別に何も予定が入っていなかったから、追いかけるように見に行っていただけ。同じPHANが毎晩見るのだから、演奏する曲目を変えなくちゃってメンバーが思ったのかもね。

── Phishのコンサートチケットは、すべてが数時間でソールドアウトになるほど人気でした。いわば熱狂的とも言える状況でした。そんな状況を、日本に来る前にはイメージしていましたか。

AMY
 今回のジャパンツアーでは、何人くらいお客さんが来るのか、まったくわからなかった。今でも、PhishのPHANがどれくらい日本にいるのかわからないけどね。99年のフジロックは、フェスティバルであって、Phishだけのショーじゃなかったから、実際にPhishを見てくれても、Phish PHANSとは限らないじゃない。立ち寄ったという感じの人も多かったと思うの。だから今回、日本に来るまでは、こんなに熱烈に迎え入れられるとは思ってもいなかった。日本に来るのは、Phishとしても大きなチャレンジのひとつでもあったんだから。

── エイミーさん自身は、今回の日本滞在で、どんなことを感じたのでしょうか。

AMY
 今回のツアーでは、自分自身とてもエキサイトしました。いろんな新しいことや新しい人にヒット(出会った)した。日本に来て感じたことは、いろんな人がいるけれども、特にショーに来た人はみんな同じ雰囲気を持っていた。こんなにいっぱいPhishのPHANがいることがうれしかった。しかもアメリカと同じような感じでいたことがビックリしたわ。

── 最後に、あのPhishのロゴをデザインしたのは誰なのですか。

AMY
 もちろんトレイよ。

 

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